まつり

19歳の母親が嫌がる3歳の子どもに法被を着させている
今日の祭りに参加するらしい
 
この街の祭りは毎年7月におこなわれる
街の人たちが全員参加しいつも賑やかだ
 
 
私は祭りの由来を聞いたが誰も答えられる人はいなかった
 
なぜだろうか
答えは簡単である、知らなくても参加できるからだ
 
ではなぜ祭りに参加するのか
これも曖昧な答えしか聞けなかった
 
なぜだろうか
 
祭りはある社会に属す人間が主体となりおこなわれる
故に祭りに参加することはその社会に自分が属している証なのである
私はそこに個人の承認欲求がある気がしてならない
 
私はその欲求がない
むしろ祭りというものに興味がない
が、祭りに参加する人間を観察するのが好きだ
だからよく祭りに行く
 
SNSによって自己欲求を満たすように
祭りはその欲求を満たす道具へ進化しているのかもしれない
ある国で10月末に起きる出来事と似ている
 
祭りは伝統であり、その社会が果たすべきは伝統の伝承である
この町には伝承する者がいないようだ 
 
そんな社会的集団はどうなのだろうか

父が死んだ

父が死んだ
長いことを姿を見せていなかったから
時間の問題だと思っていたが、
父が死んだ
 
父は偉大な人だった
父は誰にも慕われていた
 
父は若い人が好きだった
若者の心配事を聞いては
大丈夫
と声をかけるのが常であった
 
父はときに厳しく熱くなり
本気で叱ってくれた
ときには手が出ることがあったが
私はそんな父が好きだった
 
父が死んでからというもの
私は父の代わりとなる人を探した
若者に大丈夫と
声をかけてくれる大きな存在の人
 
しかしそんな人は現れないのかもしれない
時代が求めていないのかもしれない
偉大な父の存在を
 
父は死んだ

暗いスクリーンの中で

映画館で暗いスクリーンの中から映像が現れるとき、ひと昔のテレビにあった幻影のように映像が浮かび上がるときの期待感と高揚感は誰もが感じることだろうか。
 
映画はかつてニュース映画として情報を伝える媒体の役目も果たしていたという。テレビがその代わりを担い、国内から世界の情報がリアルタイムにお茶の間に届けられるようになった。やがてスマートフォンが登場しそれらの役割も取って代わったのは言うまでもなく。
 
フェイクニュースの問題。インターネットの特質である送り手の匿名性が許された自由な環境、更にスマートフォンを通じてリアルタイムにかつ大量な情報を簡単に送り、受け取ることができることは情報を伝える媒体として理想の形なのかもしれないが、フェイクニュースのような副作用も留意すべきである。
 
媒体とそれを受け取る側にはかつての暗いスクリーンの中から映像が現れるときのように1つの境目を十分に意識しておかねばならないのかもしれない。